「〆きり」

 追われて なにも できない。

2月5日までは
知力体力眼力気力を
眼界まで酷使する
地獄の日々になりそう


う〜〜〜!たまらねえ....今日まででも、かなり酷使した。.
だから劇画製作なんてやりたくねえ!...でも、これをやる運命が俺にある。
神よ、我に更なる力を与え給え!。

ここで俺なりに書いておくが、
神とは「自然」の事である。
「自然」とは「父母の事」であり、「先祖」の事である。
「先祖」を遡れば「宇宙の創造者」である。
これらを総称して俺は「神」と呼んでいる。
これらの保護によって我々人間は 生きてゆけて いるのである。

嘘と思うなら 眠っている時に息が出来る事を思え。
自分で意識して してる訳ではなかろう。
糞したくない時、小便したくない時に「したくなる」のも、
こうした自然が働いてくれているのであると認識するしかないであろう。
すべて自分より「上」の人達の働きゆえに「
上」を「カミ」と呼び
五体のてっぺん(上)
にある髪の毛も、「カミのケ(気)」と呼ぶのだ。

また、それぞれが、それぞれの味を「加味」しあってゆくところに、
嬉しい人生が構築できますよ。と言う意味もあるのだ。

神も仏も居るものか!」などと思う者は、
この事に気付いていないだけである。


この自然界は、すべてが神であるから、
自然の様子を熟視すれば、そこに神が示した論理(真理)がある。
この論理を人間に「示」し「知らせる
/申す」意味から、
示す辺」に「申す」の形を組んで
「神」と言う漢字がある。なぜ知らせる必要があるのか?
それはこの世は、そうした論理で組まれているから、
論理から大きく はずれると苦しい生き方しか出来ないから、
論理に添いながら自由に生きて行く知恵をもちなさい、と言う事になる。


天理教教団の教師信徒の中には「親神.=おやがみ」の為には
「父母」などどうでもよいと言う風潮があるが
とんでもない無知未熟な錯覚である。
自分を生んでくれた父母こそ、身近な「神」の存在である。
それが、どんな親でもだ。
この世は自分にとって善悪ある世界だが、
善悪も「
自分の心の成長」を うながす為にある。

中山みき」も言うたそうな。詣るなら、まず、
有名な遠くの神社に詣るより、名も知られぬ近くの神社に詣りなされと。
効果は同じかそれ以上。
これが「自然の理」「順序の理」と言うものである のは明白。
この逆もあるのは当然なれどリスクが付いてくる。

2007.1.31 弘史左衛門